学校では書くということがとても重視されますよね。
ノートに板書するのはもちろん、作文を書いたり、感想を書いたり、なんでもかんでも書いて残すというところに重きが置かれます。
でも、人間の言葉の過程からすると、実は書くというのは必要性としてはかなり後なんじゃないかと思います。
例えば、日本には縄文時代や弥生時代にはことばはありましたが、文字はありませんでした。
文字は中国から輸入して、それを借りて和語を表現したり、そこからひらがなやカタカナという文字を作ったりしたんです。
そう考えると文字を書く意味というのは、なんなのかな、と思います。
目の前の人に伝えるには、
がとても重要になります。
だけど、それは時間が経つと消えてしまう。
また、遠くにいる人には伝えることができない。
だから、「ことば」を「文字」に変換して、
時間が経っても消えないようにして、
遠くの人とも思いを伝えることができるようにした。
あと、覚えておきたいことがある、とかね。
つまり、「ことば」を「文字」として保存して、時間と空間を超えることができるようになったんです。
ということは、
文字を「書く」というのは相手が必要ということです。
そういうことをすっ飛ばして、
「きれいに書きなさい」とか
「丁寧に書きなさい」とか
「必ず日付けを書きなさい」とかいうのは、本来の意味を失っている。
そう思いました。
(私個人の考えとしては、丁寧に書いたり、行を揃えたり、というのは見る人への愛、おもいやりです。
また、日付を書いたりするのは自分への記録です。
中学校で連立方程式の答えを必ずx= ,y= と書かせたり、二次方程式の答えを小さい順に書かせるときには「採点者へのおもいやりで、結果的に採点ミスを減らして自分の得点に戻ってくるからだ」と説明していました。)
不登校で、親としか関わりがなく、ゲームは好きだけど、それはとりあえず読めればいい。
そういう子にとって、
「学校で習うから字を書こう」
というのは、なんの意味もなさない。
伝えたいことも伝えたい相手もいない人には、文字を書くというのは、意味のない行為でしかないのです。
なので、子どもに一生懸命文字を教えるよりも、
文字を使う機会を作ったり、
気持ちを伝えたい相手を見つけたりする方が
意味のあることになるのではないかと思います。
うまくいく方法はそれからかな…。
まとめ
「書く」の向こう側には実は思いを伝えたい相手がいる。
相手なしには書けない。
「書く」以前に、相手を見つける、関係を作ることがたいせつ。
今日も読んでいただきありがとうございます。