10年前、階段を完璧に掃除できるロボットがほしいと思った。
掃除機をかけるのはめんどくさいし、某お掃除ロボットは3センチくらいの段差は処理できるものの、階段は無理だから。
まず、本体を組み立てる。
これにほぼ1年かかった。
細かな動作をすることができ、かつ常に学習を積み重ねていくコンピュータを搭載していることを考えたら、柔軟性と頑丈さを兼ね備えなければならない。
組み立て終わったら、基本的な動作と言語を教えた。
ここに本体が出来上がってからの9年を費やしてきた。
言語を教えるのはかなりの時間とエネルギーを費やした。
初めは大まかな言葉と動作の対応からはじめ、少しずつ高度にしていき細かい指示に対応した動作ができるようになるまで9年もの月日がかかってしまったとも言えるだろう。
また、語彙を少しずつ増やしていき、こちらの曖昧な表現
例えば「だいたい」だとか
「階段」はどこからどこまでなのかとか
「きれい」とはどのような状態なのかとか
そういう、お互いの頭にあるイメージを共有した上で判断することが必要な部分を教えた。
これに関しては今も常にアップデートして学習させている状況だ。
また、それと同時進行で、こちらの言っていることがわかるのはもちろん、それと動作を対応させて、特定の部位を適切に動かす動作の訓練も積んできた。
わかることとできることは違うからだ。
やはり、指示された動作をスムースに動かすにはそれ相応の訓練も必要で、どこでどんな動きをするかについては圧力をどの程度かけるか、動きをどの程度の速さで繰り返すか、などの微調整が必須だ。
これも順次アップデート中である。
これらは、ただ掃除をするということに特化しているだけでは不十分で様々な経験させなければ獲得が難しいことがわかった。
特に、知識と言葉とイメージの共有に関しては、多くの経験が必要なようで一見全く関係のない情報や経験データが思わぬところで役にたったりすることがある。
また、これにはかなりの時間を要する。
そして、ついに
「そろそろ大丈夫だろう。」
と思える日がきた。
これで、私の言っている意味もわかるようになった。
それに対応する動作も覚え、それをスムースにコントロールできるように訓練もしてきた。
完璧とは言えないまでも、十分こちらの要求を満たすだけの条件がそろっている。
あとは、実用しながら学習を重ねて行けばいい。
そうして、私はその10年もの歳月を投じてきたそれに掃除を命じた。
階段掃除して
うぇ!気が向いたら
どうやら、
完全な従順さの代わりに自我と自由意志を育ててしまったようだ…。
この個体にとって最も優先すべきことにエネルギーと時間を費やすように学習してしまった。
そうすると、必然的に掃除などは優先度の低いものになり、その遂行はあと回しになってしまう模様…。
人権と自由意志を尊重すると、完全な従順さは失われる可能性が高いことがこのサンプルではわかった。
その個体が反抗的であり自分の考えを堂々と言ってくるというのは、
それが自由意志を尊重されてきたことの現れかもしれない。
かくして、私のお掃除ロボットを作るという計画は失敗という結果になった。
が、この個体の学習能力の高さから鑑みて状況や今後の学習によってはその計画を遂行できるパターンを作れる可能性もある。
また、掃除以外の可能性を個体自身が見出すこともできそうだ。
まだまだ研究は続く。
まとめ
ある日「掃除するのめんどくさいな~」と言っていた私に「ルンバ買えばいいじゃん」と言った息子。
そんな息子に笑いながら話したのがこのロボットを育てる、という話。
対する息子の反応は「かあしゃんの育て方が悪かったんじゃない?」…おい。
ロボットと人間の決定的な違いは、人間は命令する側でロボットは命令される側であるということ。
命令したとき、自由意志をもって反応するとしたら、それはやっぱり人間として育てているからで、
そういう育て方をしているのは親であるあなた自身です。
そういう意思を尊重した育て方ができる時代と環境が揃っているというのは、やはり幸せなことだなと思うのです。
だから、子どもが言うことを聞かないというのは、ある意味平和なんじゃないな。(ま、言うことを聞かないにも程がありますが…ね。)
今日も読んでいただきありがとうございます。