先週の日曜の朝「カタカタ音がするな…」と目を覚まして見ると
何やら一生懸命パソコンに向かいキーボードをたたく息子
足元にはローマ字表。
「かあしゃん、寝とるところ悪いんじゃけどおつりって漢字ってある?」
「(この子はいつの間にクッションことばを覚えたんじゃろう…)あるよ~。金へんのやつよ~」
「わかったありがと」
マインクラフトで「お釣りが無いように」ってどんなシチュエーション
息子にとっては漢字=かっこいいなんだそう。
いいことだ~。
ゲームでも勉強につながるとやっぱり嬉しいのは、私がルールや常識を大切にする性質を持っているからなんだけど
息子の様子を見て、やはり文字とは言語とは「自分の思いを伝えるための」手段なんだな~と再確認しました。
よく「どうやったら漢字が覚えられますか」って聞かれます。
覚える必要がなければやっぱり覚えない。
でも、こうやって自分の伝えたい思いがあって自分から何か発信したいとき、文字は味方になってくれるから。
そのとき自然発生的に必要になってくるんだな、って実感しました。
だから、子どもに漢字を覚えさせるとき、
そこにその子に覚えさせたい漢字が必要になる環境があるか?
どうやったらその環境が作れるか?
そういうのも実は重要な要因なんじゃないかと思う。
私は何年も何年も、思ったことを英語でしゃべれるようになりたいな~、って思っているんだけど
でも、そんな環境を今作ってないから
英語じゃないと伝わらない人がいないからやってない。
やろうともしてない。
ここで英語圏の生徒さんとか好きな人とかできたら多分、必死で伝えるし必死で覚えるだろうな…。
熱量の大きさが大きければ大きいほど、学問でも何でも目的に向かうと大きな情熱になる。
大人にとって都合のいい目的だけ認めてないかな…ってちょっと反省する。
勉強ってメリットとか、合理的な考えとか、自分だけの意志とか、将来への貯金とか
そういうものだけでは続きにくい。
でも、好きだったら続くこともある。
私は高校生の時、生物がなんだか好きで好きでたまらなくて、ものすっごい生物だけ勉強してて、それはそれは楽しかった(今では、「楽しかった」ことしか覚えてないけど)
だから、子どもに勉強して欲しかったら、やっぱり親が勉強しないとなって思うんです。
言われたことをキチンとやれることも素晴らしい。
誰に何を言われても自分の好きなことだけ追求できるのも素晴らしい。
どちらにしても何かを学ぶこと
知らないことを知ること
新しいことを見つけること
そういう喜びを喜んでいる姿を見せる
子どもが新しいことを発見したときに
「知らないことって知ると嬉しいね」
「考えるって面白いね」
「工夫するって楽しいね」って言える。
自分の考えや思いを言ったときに「教えてくれてありがとう」って言える。
そんな、本には書いてないちょっとした声かけや笑顔が、子どもを育む環境の空気になじんで
それを子どもたちは吸って吐いてご飯で食べて
「悩みはあるし大変なこともあるけど、生きるってなんかいいな」って
思える人生を送ってほしいな、と思った朝でした。
今日も読んでいただきありがとうございます