月曜日、ブログセミナーの忘年会に行きました。
何人かの方に「ブログ読んでます」って声をかけていただいたり、
ちょろっとご相談いただいたり、ありがたいことです。
ここにいる人たち、みんなブログを真剣に書いてるんですよ。
でも、仕事も年代も住んでる場所も全然違う人達。
私は個人で仕事をしています。
そうなると、なかなか仲間を作るって難しかったりします。
でも、家とも仕事とも違ういわばThe 3rd Place 第三の場所。
それがあるのとないのじゃ全然違います。
不登校っていろいろありますが、気持ちを通わせられる仲間がいるかどうかというのが、大きな要因となる気がします。
マズローの「欲求5段階説」で言うところの
「帰属と愛の欲求」がうまく満たされないと、自分の居場所がないって感じてしまう。
それから、エリクソンの言うところの思春期の発達課題である「アイデンティティの確立」
これって自分らしさの模索が先にあるんですよね。
「自分ってなんだろう」というごく自然な思いから、人との違いが気になっていく。
人と自分とを比べるという行為は「今の自分をより知りたい」という思いからだったりします。
だから、子どもに対して「あなたらしく」というのはあまり意味をなさない。
なぜなら、「自分らしさ」というのは
人と比べて違いが明らかになったあとに
人とは比べなくてもいい、
自分にしかないものを見つけるために湧き出てくるものだからです。
違いがまだ明らかになっていないのに、それが「自分らしい」かどうかなんて判断がつかないのです。
子どもには
「そういうことってあるよ」
「それでいいんだよ」
「そういう人いるよ」
「それって普通だよ」
「それはなかなか珍しいかもね」
「そういう風に感じるのもありだよ」
という、周りと比べるけれど自分も肯定されている、という言葉がけの方がわかりやすいのです。
(「みんなとあまりかわらない、だけど私にとっては特別だよ」という言葉に飢えている子どもが多い)
でも、比べる相手が、家庭での兄弟、学校での同級生だけだとしたら、苦しくなってしまいます。
それは、同じカテゴリーに属しているからこその違いが明確になりすぎるからです。
同じ親から生まれたのに…とか
同じ学年なのに…といった
狭いカテゴリーでは、一人ひとりの個性のバリエーションが少なすぎて、比べることに苦しさが伴うのです。
だから、子どもには、学校と家とは違う、異年齢や異文化が混ざり合う全く別の場所が必要なんです。
(大人もね!)
私自身は中学・高校生のとき、プロテスタント教会に通っていて、そこで中・高生会に所属していました。
毎週の聖書の学びと、キャンプやBBQ、スポーツ大会、クリスマス会、イースターといったイベントに積極的に参加して
そこで、スタンツをやって演技する面白さを知ったり、球技は好きじゃなかったけど楽しめるようになったり、
上下関係のない年の差のある交流からいろいろなことを学びました。
学校はそれなりに楽しかったけど、学校とは別の場所で自分が認められているという感じは
当時の私にとってとっても助けになりました
今、私にとってはライフオーガナイザーの仲間と、
このブログセミナーの仲間が第三の場所です
子どもさんが不登校になる前に、不登校になったとしてもいく場所がある、話せるところがある、というのは心の成長を止めない方法です。
だから、子どもには、いて安心できる場所、学校とは違う仲間がいる場所が必要なんです。
これさえあれば不登校にならないとは言いませんし、言えません。
学校がいつも安全とは限りませんしね。
でも、自分でそういう場所を選ぶことができるというのは、子どもにとって知っておくべきことです。
そして、親として子どもに提供することができるならば、してあげたいものです。
それがあると、社会に貢献できる大人へ一歩踏み出すせると思います。
今日も読んでいただきありがとうございます