今回のはちょっとイマイチ…。
だって前田亜季が出ててチョイ役なわけないじゃん。
と思ってたらやっぱりね~。
で、今回は承認欲求つまり
「人から認められたい」と認められることを求めることです。
私は承認欲求が、自分の持つ他の欲求に比べてかなり強いと自覚しているんです。
母が「安易にほめてしまうとこの子は褒められることを目的に頑張ってしまうかもしれない。それはやめよう」
という思いを持って育ててくれたので、母からは滅多なことでは褒められていません(記憶にないな~)。
これだけ見るとかなり「褒めてはいけない」というアドラーの教えに合っているように思います。
アドラーは褒める代わりに「ありがとう」と言ってはどうかと提案しています。
が、母はついでにテストで90点取れても 「でも100点取れんかったんじゃろ」
とか言ってくれるので褒めてもらうどころか自分のやったことを報告することすらしなくなったんですが…。
ということは、自分に対する評価を母からしてもらうことそのものは期待していないし、褒められるために行動せず、
自分で考え自分で決める、決めた後で報告する、ということを
母にだけでなく、他の人にもやっているので、確かに自由ですわ。
と書きながら新たな発見。
じゃあ、私の承認欲求が他の欲求よりも強いような気がするのは…。
多分、これです「認めて欲しい」と「認められたら嬉しい」は違うということ。
ココをごちゃまぜにするとわけがわからなくなります。
嬉しいと感じるのはまた別なんですね。
今回のドラマ「嫌われる勇気」第4話では大文字教授はこう言っています。
これはユダヤのことわざだそうですが、まさにこれですね。
「認めてもらえるように頑張る」ではなく、
「頑張った結果認められることもある」ということです。
また「あいつを見返してやる」というのも、結局誰かの評価を気にしているという点では同じことです。
生徒さんを見ていると、高校受験のときに生徒本人の考えではなく親が心配して安全圏だからという理由で選んだ子は、たとえ合格したとしても後悔が残ってしまい、高校を中退してしまうということが多いです(特に、広島県は高校中退率が高いですし…)。
反対に、合格するかどうかわからないけど「自分の行きたい高校にチャレンジ」した子の方が合格した時の満足度は高いです。(まあ、当たり前ですけどね)。
もちろん、落ちてしまったときには、「やっぱり合格できる方にしたら良かった」という後悔はあるようですが、
それはどちらかと言うと「もっとちゃんとやればよかった」という後悔が強いようです。
つまり、何がいいたいかと言うと、子どもの受験に関して親が誘導するとろくなことがない、ということですね。
ちょっと話が逸れましたが、自分の本意でなければどんな人の意見にも従わない、という選択があなたにはできるんです。
だから、ドラマ「嫌われる勇気」第4話では、狸穴(まみあな)家の誰もが、自分の人生よりも自分の幸せよりも、狸穴家という家そのものを優先してきたこと。
それによって、自分自身が本当に大切にしたいものは何か?ということに気づくことができなくなってしまったんです。
家という見えないものに縛られているからこそ、解放されたいと思っていたさゆりは、家の象徴である父親を「助けない」という選択をしたのです。
それでも解放されることがなかったのは、自分自身が逃れたいと切望しているから。
私自身を見て!!という彼女の心の叫びは裏を返せば、
「私は見られていない!」
「私と家がいつも繋がっている!」
「家という冠を外した状態で認められない限り私はまだ家に縛られている!」と自分自身を認識しているということ。
人は誰でもそれぞれ色メガネをかけて生きています。
「家に縛られている」という色メガネを通して見た世界では、たとえ、逃れていたとしても「逃れている自分」を見ることはできないでしょう。
同様に「誰かに認めてもらわないと価値のない自分」という色メガネをかけているとしたら、どんなに努力をしても「価値のない自分」を見つけてしまうでしょう。
それが、世界がそういう色、ではなく自分のかけているメガネについた色だと気づかずに、
多くの人は「自分にとって都合のいい勘違い」の中で生きています。
自分の考えを少しも疑うことなく、自分の見えているものが真実で他の人にもそう見えているだろう、という勘違いの中で。
だからこそ、
誰かに嫌われないようにすることよりも、自分が自分のことを少しでも好きでいられる。
嫌いにならなくて済むことのほうが遥かに重要なのです。
今回私が一番勉強になったのは、コチラのセリフ。
人の持つ「自分にとって都合のいい勘違いをする」という特性をうまく利用した例ですね。
今日も読んでいただきありがとうございます。